イーシュヴァラ・プラニダーナ
みんなの幸せを祈り、社会に貢献する
ムーンデーのため、今回は自分の練習、最近の出来事から、ちょっと独り言。
二ヤマの5番目《イーシュヴァラ・プラニダーナ=神への献身》
最近になってようやく、《献身的にヨガをすること》に意識が向くようになった。
昨年の今頃まで、地方在住の私は週に一度だけ東京に出向き、
マイソールの練習をみてもらうこと3年。そのほかは宅練の毎日が続いておりました。
ところが今、オンラインで毎日のように先生に見ていただくと言う思わぬ生活がスタートし、
地方者にとっては、思わぬ幸運に恵まれている。
先生方も、早朝からご自身の練習をしてから、
世界のどこかから視線を私に注いでくださっている。
見られているから集中するのではなくて、
先生が私たちに注いでくれている時間の重さについて考えるようになった時、
自然と、私の日々の練習が、献身的な練習になってきたように思う。
《時間=命》なのです。
練習を見てくれている約2時間分、
私はとんでもないことに《師の命を消費している》のだ。
ご家族でもなく、恋人でもなく、生徒たちのために。
彼らは不平不満や愚痴を言わない。
私はそういう人を《先生》と呼んでいる。
それ以外は「ヨガ仲間」だ。
ヨガの質問はあまりしない方だが、
すれば必ず、真剣に答えてくれる。
その回答に費やしてくれた時間も彼らの命だ。
私がカポタアーサナで、かかとを触るのに3年かかったけれど、
その3年間、ただじっと黙って時に励まし見守ってくれた。
先生の貴重な3年間を使ってしまった。
気分が乗らないだけで、適当な練習をした時も、
遅刻して待ってくれていて、終わり時間が遅れた時も、
練習時間以外でも、私の言いたいことや、
ただの感想、自分の承認欲求のためにに聞く耳を持って付き合ってくれた、
そんな時間も、彼らの命と引き換えだ。
今思えば恥ずかしいこと、この上ない。
上級の練習生はたいてい、自分を主張せず、居るかいないか分からないほど静かだ。
毎朝の練習を、誰のためでもなく献身的に行う。
長い練習の過程でしか得られないものだろう。
自分も少なからず教える立場にあって、
彼らが自分にかけてくれた時間、勇気ある言動、命の少しを
分けることがきればいいなと思う。